フィッツジェラルドに憧れて

思うこと書いていくだけのチラシの裏

型にはまらないことは怖いことである

世の中には「変わっている人」と呼ばれる人、もしくは呼ばれる人が存在してて

アイデンティティの確立のような扱いを孕んで利用されることがあるけど

「変わっている人」は決して「理解できない人」ではないのだ

いわば、サンプルして存在する元ネタがどこかにあるわけであって

自然的に発現したわけではない

 

人間は他者をサンプリングしてパーツとして自分の中に他者を存在させているということでしかないわけで

個性というものを唯一存在するものと仮定すると部分的には個性的な人というものは存在し得ない

 

個性的な人というのは他者からも理解されなく、他者への理解が出来ないというのが僕の持論

 

社会の同調圧力ついてを書いた「コンビニ人間」を読んでの考察なんだけど

 

読み返してて思うことは理解の範疇を超える人はとてつもなく怖いと思う

 

主人公(以下、恵子)は大学生の頃からずっとコンビニ店員として働いているのだけど

恵子は他者への共感性が著しく欠如していて

他者が怒ったり泣いたりすることが理解できない中で社会の中で適合するように他者への模範することを隠れ蓑にして社会生活を送る

 

その中で、墓に花を添える描写があるのだけど

死体に囲まれた死体の花たちという表現はとてつもなく秀逸で、神秘性や非科学的な事を考える余地は一切ない

 

恵子が突飛な性格をしていて物語のエンターテイメント性を与えているんだけど

もし恵子のような性格でなくても、他者を模範するということは日常にあって強要されているのである

僕らも学生らしさや社会人らしさをトレースして生きているだけで恵子となんだ変わらない

 

結果的に、思考を停止しているだけで模範をすることになんの疑問を持つことがないだけなのが大きな違いなだけだ

 

そこで疑問を持ってしまい、みんながやっていることを鵜呑みにできず咀嚼できなかった結果

理解の範疇を超える個性的な人は他者とは永遠と理解されないまま恐怖の対象として好奇な眼差しで嫌厭され続けるのである

 

 

コンビニ人間

コンビニ人間