フィッツジェラルドに憧れて

思うこと書いていくだけのチラシの裏

半生の轍

最近、昔のことがフラッシュバックする時がある。

1番古い記憶は、石垣島の県営団地から姉と母に手を引かれながら海へ向かうところを朧げに覚えている。

多分夏だったと思う。どのように感じたかは覚えていない。

ただただ海へ向かっている事だけを覚えている。

その次の古い記憶は、オレンジ色の街灯の道を歩き疲れたと愚図りながら祖母と姉と叔母の家に向かう記憶。いまだにオレンジ色の街灯は好きになれない。

弟を産むために沖縄本島の病院に行くことになり叔母夫婦の家に厄介になることになった。

妊娠7ヶ月になるまで、父親が誰かもわからない子供を妊娠した娘を恥じ、祖母は母が妊娠していたことをひた隠しにして、一切外に出さずにいたという。

しかし隠し通すことは無理でそのことを叔母が知り、このまま祖母と母を2人にするとおかしくなると思った叔母は自分自身のいる本島に僕達を移住させることにした。

母は先に沖縄本島の病院で弟を産み、祖母と姉と上京してきた時に弟がいて僕はとても困惑した。

祖母は、母が生まれる前に流産した事があるらしく、お墓も立ててあげられてないから水子に恨まれていると言った。

幼稚園の頃、叔母の計らいで僕は1年だけカトリック幼稚園に通うことになった。お金は叔母夫婦が工面してくれた。マリアを崇める場所で、神は乗り越えられる苦労を人間に強いると教えられた。乗り越えられないものは淘汰されるだけだと僕は思った。

小学生の頃、育児放棄していた母とともに部屋の隅に堆く積まれた残骸のポリエチレンとペットボトルに囲まれながらゴミ屋敷で暮らした。

小学校で母の日に描いたクレヨン画が佳作をとった。目玉焼きを焼く母とそれを机で兄弟で待つ絵だった。嘘で取った賞は嬉しくなかった。

今を思えば、児童養護施設に兄弟それぞれ預けてもらうことが正しかった気もする。育てる事が出来ない人間が子供を持つべきではない。

新しい上履き買ってもらえなかったので、うちの姉つま先の形が外側に、僕は内側に少し回り込むように丸くなっている。

夏休みは給食がないので、醤油やポン酢など味のついた調味料を舐めたりして飢えを凌いだこともある、電気もガスも止まることは日常茶飯事だった。

テレビで金八先生がやってて給食費を払ってない子がいる話があって、うちと一緒だと思った。

中学生の頃、自分は高校に行けないと思った。姉がアルバイトで稼いだお金で僕の高校入学のお金を工面してくれた。

高校はアルバイトに明け暮れながら、ギターを弾き高校に通った。夜遅くまで働いているものだから、遅刻して生徒指導室によく呼ばれた。出席単位ギリギリで高校を卒業し、1年フリーターをし、専門学校へ行った。

ブラック企業に入ったりしたが、これは修行だと思って1年半在籍した。

その後も職場を2度ほど変え、パニック障害にもなった。

今、僕は母が本島移住してきた時と同じ歳になっていて、時が止まったとしか思えない精神年齢の母を見るたびに、逃げてはいけない踏ん張りどころを誤って逃げて逃げて生き続けた結果がこれだなと思った。

自分は道を踏み外していないかということを半生の轍を振り返りながら、どうか母と祖母の遺伝子の良い方を受け継いだことをただただ祈る。

多分、もう10年経った時に人生の答え合わせをする時が来るんだと思う。