我思うゆえに我あり
土曜日と日曜日にかけてNETFLIXで二本の映画を見た
「イノセンス」と「INCEPTION」
「イノセンス」は「GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊」という押井守監督のアニメの続編で脳を電子ネットワークに繋げられた《電脳化》された人々ががいる世界で近未来SFの話だ
「INCEPTION」はクリストファーノーラン監督の夢を共有することができる技術がある世界の話で夢の中に潜り込み潜在意識から情報を盗むような犯罪が行われている
双方は全く異なる世界の話だがSFを舞台にすると呪いのように付きまとうのが『存在』というテーマだ
「イノセンス」は自らを機械と融合することによって、人間性と呼ばれるものがとてつもなく希薄になっていて、人々が現実の世界に比べ『存在』ということにとてつもなく懐疑的なのだ
心と呼ばれるものが希釈されて、彼らの世界ではゴーストと呼ばれている
心の存在自体が不確かなのだ
一方、「INCEPTION」は《電脳化》と呼ばれるような突飛なことこそは起こらないが、夢を共有すること、夢を何層にも重ねることによって現実が希薄になっている
主人公である《コブ》も夢の中に理想の世界を築き上げてあたかも自分の生きてる世界がここにはないかのように夢に逃避するのだ
今現在、テレビで有名芸能人の夫婦の離婚騒動が取り上げられている
彼女が存在していると思われることは彼女の中には現実としてあるのだろう
『存在』とは僕らが認めた時点で『存在』なのかもしれない
持たざる者の持たないこと
なんのブームかはわからないけど「ミニマリスト」って呼ばれている合理主義の成れの果てみたいな主義が日本ではもてはやされていて
コンビニや書店に行くとミニマムであることが良いことのように布教されている
日本における「ミニマリスト」の本やブログには、「無駄だから捨てた or 持たない」というふうに無駄だということが悪いことだという前提で話されている
ネットで、「無駄」について調べて見たけど役に立たないこととしか書かれてなかった
あくまでこれは僕の推測なんだけど、もともとはお金持ちの遊びの一つとして「ミニマリスト」っていうものがあって、金銭的に余裕がある中で増え続けたモノに対しての執着心を捨てるみたいなことが行われてたんじゃないかなとか思っていて
『持っている人たちの持たない暮らし』っていうのが賛美されているんだと思うんだよね
でも一方で量産型の「ミニマリスト」たちは持たざる者の持たないという選択にしかならなくて、『持たざる者の貧乏生活』の披露に他ならない
みんなそれを認識した上で承認されているのであれば、「ミニマリスト」を否定することは野暮なのかと思うけど
僕は無駄なことをすることこそが、プライベートの時間だと思うし、どうせ死んで灰になるのならば、形あるものが残っていた方が僕は嬉しいと思った
落ちることの魔性的な魅力について
今日も今日とて、本を読み会社に行き、家路につくような生活を送っていて
平日は明日の仕事の心配なんかをしながらシャワーを浴びて床につく
日曜日は儀式的に暗い映画、本、漫画、音楽なんかを読み見聞きするのが毎週の僕の行動パターン
月曜日を最高のテンションで迎えるために日曜日はトコトンまでテンションを下げる行為に勤しんでいる
デカダンな魔性的な魅力に取り憑かれているのである
そんな僕のベストオブ日曜日の本には村上龍の「限りなく透明に近いブルー」がランクインする
この本に出てくる主人公の〈リュウ〉もそんなデカダンに取り憑かれた一人で、ドラッグ、暴力、性、などおおよそ良くないと呼ばれることを主体性もなくただ無感情に行なっている
〈リュウ〉に共感を覚えるというわけでもないのだけど、身を滅ぼすような感覚に一種の幸福感が感じることは少なからず理解できる
生き続ける人生の中で明日のことも未来のことも考える必要がなく、ただひたすらに身を滅ぼす
お酒とドラッグで溢れ出しそうな心配の種を間引いて、思考を止める
そうやって死に対する願望めいたことが、逆説的に生きることへの心配から解き放たれ幸福感を得る
哲学者のパスカルは、動物に比べ低い身体機能と知恵を比喩して「人は考える葦だ」と言ったけど、考えることが動物的生存本能を殺している
退廃的なことへの魅力とは、動物的な脱人間性にあるんだと僕は思う
▼参考: 僕が日曜日に手に取るシリーズ
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子供の時に思ってたこと
少し何かに傾倒しているヤバいやつみたいな文章になるかもしれないけど、恐れず書いていこうと思う
中島義道氏の「悪について」という本を買った
元々は好きで読んでる以下のブログに紹介されていたのがキッカケだったと思う
「悪について」という本はカントの思想に基づいて語られていて
子供の時に思ってたことが、この本を読んでがっちり噛み合った気がした。あくまで気がしただけで完全に理解しているということには程遠いのかもしれない。
「悪について」の冒頭で語られるのだけれど
いまや我が国では、幼児虐待や少年による傷害・殺人など、残虐な犯罪事件が毎日のように起こっている。ジャーナリズムは騒ぎ立て、次々に教育評論家や精神病理学者や犯罪心理学者、はたまたは歌手やタレントやスポーツ選手までが、テレビや新聞に登場して、我がもの顔に「対策」を論ずる。このすべての現象がきわめて不愉快である。
中島氏が冒頭でも語っていることを僕も子供の時から、不可解だなと思ってニュースを見ていたのを思い出した
本当にこの人達は悪い人ではないのかと、人を批判するに足る人間性を持ち合わせているのかと
不愉快だとは思わなかったのだけれど、そこに攻撃してもいいという大義名分を掲げて、抵抗できないものを殴り倒しているイメージに近いものを感じていたのだと思う
その次にも、中島氏はこう書いている
私ははなはだしい違和感を覚えるのは、こういった残酷な事件について語るレポーターやニュースキャスターやコメンテーターたちの鈍感きわまるふるまいである。一様に、異常事態に驚き呆れたという顔をし、沈痛な面持ちで現代日本人の「心の荒廃」を嘆き、「どうにかせねば」と提言をする。あたかも自分はこういう悪とはまったく無縁の安全地帯にいるかのようである。
話は少しそれるけど、僕は中学生の時から、利己的っていう言葉を好んで使っていてすべてにおいて利己的ではないことなど存在しないということを今でも思っていて
たとえば、誰かの為を思い優しくしたとしてそれはすべて他人に対する優越感や愛情の報復を望んでいるわけで利己的ではない人間などこの世には存在しないと思っている
中島氏が語るカントにも「自己愛」という言葉で語られていて、他人に向ける優しさや一見良いと思われる嘘についても、自分自身に利益があると感じてやっていることに対しては全ては悪なのだと
たとえ身重の母が、自分の命を投げ出して子供の命を優先的に助けてほしいと望み実行したとしてもそれは悪なのだと
さすがに悪と善についての境界線には賛同しかねるところはあるのだけれど
共通して言えることは、悪であることが自分の中に存在しないと思う事自体が思い上がりなのだということである
すべてにおいて誰かの為を思い、何かをしたとしてもそれは善ではなくあくまで利己的なことであり、僕らはきっといろんなことに対してgiveとtakeを繰り返していて無意識下にいろいろなことを与え、受け取っているのだと思う
だからこそ、自分が行っていることに思い上がることなく見つめていくことが大事なのかと思った
誰かを批判するときに僕は悪ではないのかと
理解されたいこととされたくないこと
昨日は髪の毛を切りに行った
家の近所の歩いて1分ぐらいの床屋さん
いつも同じ理容師が髪を切ってくれるんだけど
半年に一回しか行かないから担当の名前の人もわからなくて
約3年くらい名前の知らない人に髪を切られ続けている
悪い人ではないのだけど、髪を切ってくれる時に身の上を聞いて来るから少し苦手で
僕のことを聞いて来るのはやめてくれないかなと毎回思う
懲りずにまた半年経ったらこの床屋さんに僕は行くんだと思う
パーソナルスペースみたいな領域が会話の中にももちろんあって心を許している人以外には話したくない事が僕にはたくさんある
喋らなくても理解しててほしいこととか理解されたくないこととかたくさんある
つい最近、会社の人とと喋っていて少し動揺したというか本質を見抜かれてビックリしたのとホッとした事があった
理解されていないであろうと思った事が理解されてて、なんか急に泣きそうになってしまった
見てくれてる人は見てるんだなと
僕の気苦労を知ってる人がいるんだなととても嬉しかった
そんな理解されてないと思っていたところにも、見てる人にはバレてるんだなと
少しのわかってるくれる人がいれば多くはいらないなと思った
メメントモリ
土曜日にそろそろ髪を切らなきゃなと思いながら二ヶ月もたった髪の毛を眺めてたら
中から長い長い白髪を見つけた
耳の後ろの方の見えづらいところに生えていた
なんか一本だけ栄養不足で成長できなかったんだなと思いながら、引っ張って間引いた
なかったことにした
ついでに白髪に効く食べ物をネットで検索して、ワカメと納豆と豆腐を大量に買った
20歳になった時にも、コンビニで深夜アルバイトしてて、ふとから鏡を見たら前髪に白髪が生えてた
今回で2回目だったけど、あーなんか歳ってとってるんだなって思った
中身は多分、17歳の時から全然変わらないし、将来のことなんかわからなくて、体だけが大人になってたりするけど
今日はポストに送付されてた年金受給額のお知らせなんかを眺めてるととてつもなく不安になったり、結婚する気なんかさらさらないけど孤独死は嫌だなって思ったり
借りた奨学金返さなきゃ死ねないなーとか思ったり
何も考えないで生きてるのに、白髪を一本見つけたせいでちゃんと頑張んなきゃなって思った
パターン人間の「朝のリレー」
今朝、落し物を拾った
拾ったものを手にとってみると手帳型のカバーに包まれたiPhoneだった
多分、道ですれ違った颯爽と坂を駆け下りるママチャリに乗ったおばさんのものなんだと思う
手にとってみたもののその時は、iPhoneの持ち主がわからなくてしばらくの間は手に持ったままいつもの道を歩いていた
迷子の手をひき、母親を探す気持ちだった
曲がり角に差しかかろうとしてた時
ママチャリのおばさんが自転車を引き、こっちに向かって歩いてきてた
どうやら落し物に気づいたらしく来た道戻って来てたのだった
ようやくそのおばさんに僕はiPhoneを渡して僕の任務は遂行したんだけど
ふと谷川 俊太郎の「朝のリレー」みたいだなって思った
『カムチャッカの若者がキリンの夢を見る時
僕は落し物のiPhoneを持ち主に渡す』
みたいな