フィッツジェラルドに憧れて

思うこと書いていくだけのチラシの裏

子供の時に思ってたこと

少し何かに傾倒しているヤバいやつみたいな文章になるかもしれないけど、恐れず書いていこうと思う

 

中島義道氏の「悪について」という本を買った 

悪について (岩波新書)

悪について (岩波新書)

 

 

元々は好きで読んでる以下のブログに紹介されていたのがキッカケだったと思う

mariminor.hatenablog.com

 

「悪について」という本はカントの思想に基づいて語られていて

子供の時に思ってたことが、この本を読んでがっちり噛み合った気がした。あくまで気がしただけで完全に理解しているということには程遠いのかもしれない。

 

「悪について」の冒頭で語られるのだけれど

 いまや我が国では、幼児虐待や少年による傷害・殺人など、残虐な犯罪事件が毎日のように起こっている。ジャーナリズムは騒ぎ立て、次々に教育評論家や精神病理学者や犯罪心理学者、はたまたは歌手やタレントやスポーツ選手までが、テレビや新聞に登場して、我がもの顔に「対策」を論ずる。このすべての現象がきわめて不愉快である。 

中島氏が冒頭でも語っていることを僕も子供の時から、不可解だなと思ってニュースを見ていたのを思い出した

本当にこの人達は悪い人ではないのかと、人を批判するに足る人間性を持ち合わせているのかと

不愉快だとは思わなかったのだけれど、そこに攻撃してもいいという大義名分を掲げて、抵抗できないものを殴り倒しているイメージに近いものを感じていたのだと思う

 

その次にも、中島氏はこう書いている

 私ははなはだしい違和感を覚えるのは、こういった残酷な事件について語るレポーターやニュースキャスターやコメンテーターたちの鈍感きわまるふるまいである。一様に、異常事態に驚き呆れたという顔をし、沈痛な面持ちで現代日本人の「心の荒廃」を嘆き、「どうにかせねば」と提言をする。あたかも自分はこういう悪とはまったく無縁の安全地帯にいるかのようである。 

話は少しそれるけど、僕は中学生の時から、利己的っていう言葉を好んで使っていてすべてにおいて利己的ではないことなど存在しないということを今でも思っていて

たとえば、誰かの為を思い優しくしたとしてそれはすべて他人に対する優越感や愛情の報復を望んでいるわけで利己的ではない人間などこの世には存在しないと思っている

 

中島氏が語るカントにも「自己愛」という言葉で語られていて、他人に向ける優しさや一見良いと思われる嘘についても、自分自身に利益があると感じてやっていることに対しては全ては悪なのだと

たとえ身重の母が、自分の命を投げ出して子供の命を優先的に助けてほしいと望み実行したとしてもそれは悪なのだと

 

さすがに悪と善についての境界線には賛同しかねるところはあるのだけれど

共通して言えることは、悪であることが自分の中に存在しないと思う事自体が思い上がりなのだということである

すべてにおいて誰かの為を思い、何かをしたとしてもそれは善ではなくあくまで利己的なことであり、僕らはきっといろんなことに対してgiveとtakeを繰り返していて無意識下にいろいろなことを与え、受け取っているのだと思う

 

だからこそ、自分が行っていることに思い上がることなく見つめていくことが大事なのかと思った

 

誰かを批判するときに僕は悪ではないのかと

 

理解されたいこととされたくないこと

昨日は髪の毛を切りに行った

家の近所の歩いて1分ぐらいの床屋さん

 

いつも同じ理容師が髪を切ってくれるんだけど

半年に一回しか行かないから担当の名前の人もわからなくて

約3年くらい名前の知らない人に髪を切られ続けている

 

悪い人ではないのだけど、髪を切ってくれる時に身の上を聞いて来るから少し苦手で

僕のことを聞いて来るのはやめてくれないかなと毎回思う

 

懲りずにまた半年経ったらこの床屋さんに僕は行くんだと思う

 

パーソナルスペースみたいな領域が会話の中にももちろんあって心を許している人以外には話したくない事が僕にはたくさんある

 

喋らなくても理解しててほしいこととか理解されたくないこととかたくさんある

 

つい最近、会社の人とと喋っていて少し動揺したというか本質を見抜かれてビックリしたのとホッとした事があった

 

理解されていないであろうと思った事が理解されてて、なんか急に泣きそうになってしまった

 

見てくれてる人は見てるんだなと

僕の気苦労を知ってる人がいるんだなととても嬉しかった

 

そんな理解されてないと思っていたところにも、見てる人にはバレてるんだなと

 

少しのわかってるくれる人がいれば多くはいらないなと思った

メメントモリ

土曜日にそろそろ髪を切らなきゃなと思いながら二ヶ月もたった髪の毛を眺めてたら

中から長い長い白髪を見つけた

耳の後ろの方の見えづらいところに生えていた

なんか一本だけ栄養不足で成長できなかったんだなと思いながら、引っ張って間引いた

なかったことにした

 

ついでに白髪に効く食べ物をネットで検索して、ワカメと納豆と豆腐を大量に買った

 

20歳になった時にも、コンビニで深夜アルバイトしてて、ふとから鏡を見たら前髪に白髪が生えてた

 

今回で2回目だったけど、あーなんか歳ってとってるんだなって思った

中身は多分、17歳の時から全然変わらないし、将来のことなんかわからなくて、体だけが大人になってたりするけど

 

今日はポストに送付されてた年金受給額のお知らせなんかを眺めてるととてつもなく不安になったり、結婚する気なんかさらさらないけど孤独死は嫌だなって思ったり

借りた奨学金返さなきゃ死ねないなーとか思ったり

 

何も考えないで生きてるのに、白髪を一本見つけたせいでちゃんと頑張んなきゃなって思った

パターン人間の「朝のリレー」

今朝、落し物を拾った

拾ったものを手にとってみると手帳型のカバーに包まれたiPhoneだった

 

多分、道ですれ違った颯爽と坂を駆け下りるママチャリに乗ったおばさんのものなんだと思う

 

手にとってみたもののその時は、iPhoneの持ち主がわからなくてしばらくの間は手に持ったままいつもの道を歩いていた

迷子の手をひき、母親を探す気持ちだった

 

曲がり角に差しかかろうとしてた時

ママチャリのおばさんが自転車を引き、こっちに向かって歩いてきてた

 

どうやら落し物に気づいたらしく来た道戻って来てたのだった

 

ようやくそのおばさんに僕はiPhoneを渡して僕の任務は遂行したんだけど

 

ふと谷川 俊太郎の「朝のリレー」みたいだなって思った

 

カムチャッカの若者がキリンの夢を見る時

僕は落し物のiPhoneを持ち主に渡す』

 

みたいな

 

 

型にはまらないことは怖いことである

世の中には「変わっている人」と呼ばれる人、もしくは呼ばれる人が存在してて

アイデンティティの確立のような扱いを孕んで利用されることがあるけど

「変わっている人」は決して「理解できない人」ではないのだ

いわば、サンプルして存在する元ネタがどこかにあるわけであって

自然的に発現したわけではない

 

人間は他者をサンプリングしてパーツとして自分の中に他者を存在させているということでしかないわけで

個性というものを唯一存在するものと仮定すると部分的には個性的な人というものは存在し得ない

 

個性的な人というのは他者からも理解されなく、他者への理解が出来ないというのが僕の持論

 

社会の同調圧力ついてを書いた「コンビニ人間」を読んでの考察なんだけど

 

読み返してて思うことは理解の範疇を超える人はとてつもなく怖いと思う

 

主人公(以下、恵子)は大学生の頃からずっとコンビニ店員として働いているのだけど

恵子は他者への共感性が著しく欠如していて

他者が怒ったり泣いたりすることが理解できない中で社会の中で適合するように他者への模範することを隠れ蓑にして社会生活を送る

 

その中で、墓に花を添える描写があるのだけど

死体に囲まれた死体の花たちという表現はとてつもなく秀逸で、神秘性や非科学的な事を考える余地は一切ない

 

恵子が突飛な性格をしていて物語のエンターテイメント性を与えているんだけど

もし恵子のような性格でなくても、他者を模範するということは日常にあって強要されているのである

僕らも学生らしさや社会人らしさをトレースして生きているだけで恵子となんだ変わらない

 

結果的に、思考を停止しているだけで模範をすることになんの疑問を持つことがないだけなのが大きな違いなだけだ

 

そこで疑問を持ってしまい、みんながやっていることを鵜呑みにできず咀嚼できなかった結果

理解の範疇を超える個性的な人は他者とは永遠と理解されないまま恐怖の対象として好奇な眼差しで嫌厭され続けるのである

 

 

コンビニ人間

コンビニ人間

 

 

親と子と他人

齢二十四にもなって、会話のキャッチボールをキャッチーミットに収められない人種なのですが、僕はよく知らない人に話しかけられる。

 

コンビニでアルバイトをしていれば、オーストラリアから旅行に来た外国人に道を尋ねられ(ちなみに勤務先は観光地でもなんでもない所)。 またある時は、大阪に旅行に行った際に現地人に道を尋ねられ。タクシーに乗ればタクシーの運転手の人生論を聞かされるという。

 

赤の他人の話を聞くという天命を授かったとしか思えないような日々を送っていて。

 

そんな今日も会社に遅刻しそうになり、タクシーで近くのバス停まで向かった。

その乗ったタクシー運転手のおじいちゃん(以下、おじいちゃん)が僕を乗せるやいなや

「この車は監視されてるさー、お客さんごめんねー」

と開口一番に言ってきて聞いてもいないのに防犯のために車載カメラが付いている旨を話してきた。

 

とっても焦ってるし、正直カメラに写ってようがどうでも良かったんだけど

老人にはめっぽう弱い僕は気を悪くしないようにおじいちゃんの話を聞いていた。

 

そんなおじいちゃんの遍歴がバツ2だとか、息子はIBMで働いてるとか、長野オリンピックの際は息子を大学行かせるために長野オリンピックの建設の出稼ぎに行ってただとか、娘はアメリカに留学に行って英語が堪能だとか、今は付き合ってる彼女がいるとか。

 

おじいちゃんの人生の波乱万丈な話を早朝、会社に遅刻しそうになりながら聞いてる社畜の図が滑稽すぎてなんか我ながら笑えた。

 

でもそんなただの自慢話を聞いててもおじいちゃんの話に出てきた息子や娘も僕より一回りも二周りも離れている人の話なのに

まだ子供のときと変わらないような話しぶりが親はいくつになっても子供は子供なんだなって感じてすごく気持ちが温かくなった

この感覚は子供がいないとわからないんだろなって少しセンチになった朝だった

 

ちなみに遅刻ギリギリに会社についたのは言うまでもない

自分の中で少しだけ守ってること

最近、アジア人が飛行機から追い出されるっていうニュースをみて

少しだけ先輩のことを思い出した

 

僕は、中学生の頃から先輩にギターを教えてもらってて

今現在も、時間にゆとりがあるときはかき鳴らして遊ぶ程度には続けているんだけど

 

僕にレスポールって言う名前のギターを教えてくれた先輩はとても完璧だった

 

当時の先輩は、おじさんから貰った1950年代のFenderのミュージックマスターを持っていてシングルコイルにヘッド落ちしやすいヴィンテージギターを使っていた

 

その先輩が昔、「人間は木を見て森を見る悪い癖があるから、人をカテゴリーで判断しちゃいけないよ」って言ってたことを未だに覚えてて

僕の中で勝手に守ってる約束の一つなんだけど

 

意外と人種差別って沖縄では顕著にあって、中高年の人達とかはとくに中国人への偏見と差別発言が多いと思う

 

お酒を飲んで、「最近の若者わぁー」なんてくだをまくような大人にならないように気をつけなればいけないなと思いながら、東京にいる先輩元気かなーなんて思った今日だった