フィッツジェラルドに憧れて

思うこと書いていくだけのチラシの裏

メメントモリ

土曜日にそろそろ髪を切らなきゃなと思いながら二ヶ月もたった髪の毛を眺めてたら

中から長い長い白髪を見つけた

耳の後ろの方の見えづらいところに生えていた

なんか一本だけ栄養不足で成長できなかったんだなと思いながら、引っ張って間引いた

なかったことにした

 

ついでに白髪に効く食べ物をネットで検索して、ワカメと納豆と豆腐を大量に買った

 

20歳になった時にも、コンビニで深夜アルバイトしてて、ふとから鏡を見たら前髪に白髪が生えてた

 

今回で2回目だったけど、あーなんか歳ってとってるんだなって思った

中身は多分、17歳の時から全然変わらないし、将来のことなんかわからなくて、体だけが大人になってたりするけど

 

今日はポストに送付されてた年金受給額のお知らせなんかを眺めてるととてつもなく不安になったり、結婚する気なんかさらさらないけど孤独死は嫌だなって思ったり

借りた奨学金返さなきゃ死ねないなーとか思ったり

 

何も考えないで生きてるのに、白髪を一本見つけたせいでちゃんと頑張んなきゃなって思った

パターン人間の「朝のリレー」

今朝、落し物を拾った

拾ったものを手にとってみると手帳型のカバーに包まれたiPhoneだった

 

多分、道ですれ違った颯爽と坂を駆け下りるママチャリに乗ったおばさんのものなんだと思う

 

手にとってみたもののその時は、iPhoneの持ち主がわからなくてしばらくの間は手に持ったままいつもの道を歩いていた

迷子の手をひき、母親を探す気持ちだった

 

曲がり角に差しかかろうとしてた時

ママチャリのおばさんが自転車を引き、こっちに向かって歩いてきてた

 

どうやら落し物に気づいたらしく来た道戻って来てたのだった

 

ようやくそのおばさんに僕はiPhoneを渡して僕の任務は遂行したんだけど

 

ふと谷川 俊太郎の「朝のリレー」みたいだなって思った

 

カムチャッカの若者がキリンの夢を見る時

僕は落し物のiPhoneを持ち主に渡す』

 

みたいな

 

 

型にはまらないことは怖いことである

世の中には「変わっている人」と呼ばれる人、もしくは呼ばれる人が存在してて

アイデンティティの確立のような扱いを孕んで利用されることがあるけど

「変わっている人」は決して「理解できない人」ではないのだ

いわば、サンプルして存在する元ネタがどこかにあるわけであって

自然的に発現したわけではない

 

人間は他者をサンプリングしてパーツとして自分の中に他者を存在させているということでしかないわけで

個性というものを唯一存在するものと仮定すると部分的には個性的な人というものは存在し得ない

 

個性的な人というのは他者からも理解されなく、他者への理解が出来ないというのが僕の持論

 

社会の同調圧力ついてを書いた「コンビニ人間」を読んでの考察なんだけど

 

読み返してて思うことは理解の範疇を超える人はとてつもなく怖いと思う

 

主人公(以下、恵子)は大学生の頃からずっとコンビニ店員として働いているのだけど

恵子は他者への共感性が著しく欠如していて

他者が怒ったり泣いたりすることが理解できない中で社会の中で適合するように他者への模範することを隠れ蓑にして社会生活を送る

 

その中で、墓に花を添える描写があるのだけど

死体に囲まれた死体の花たちという表現はとてつもなく秀逸で、神秘性や非科学的な事を考える余地は一切ない

 

恵子が突飛な性格をしていて物語のエンターテイメント性を与えているんだけど

もし恵子のような性格でなくても、他者を模範するということは日常にあって強要されているのである

僕らも学生らしさや社会人らしさをトレースして生きているだけで恵子となんだ変わらない

 

結果的に、思考を停止しているだけで模範をすることになんの疑問を持つことがないだけなのが大きな違いなだけだ

 

そこで疑問を持ってしまい、みんながやっていることを鵜呑みにできず咀嚼できなかった結果

理解の範疇を超える個性的な人は他者とは永遠と理解されないまま恐怖の対象として好奇な眼差しで嫌厭され続けるのである

 

 

コンビニ人間

コンビニ人間

 

 

親と子と他人

齢二十四にもなって、会話のキャッチボールをキャッチーミットに収められない人種なのですが、僕はよく知らない人に話しかけられる。

 

コンビニでアルバイトをしていれば、オーストラリアから旅行に来た外国人に道を尋ねられ(ちなみに勤務先は観光地でもなんでもない所)。 またある時は、大阪に旅行に行った際に現地人に道を尋ねられ。タクシーに乗ればタクシーの運転手の人生論を聞かされるという。

 

赤の他人の話を聞くという天命を授かったとしか思えないような日々を送っていて。

 

そんな今日も会社に遅刻しそうになり、タクシーで近くのバス停まで向かった。

その乗ったタクシー運転手のおじいちゃん(以下、おじいちゃん)が僕を乗せるやいなや

「この車は監視されてるさー、お客さんごめんねー」

と開口一番に言ってきて聞いてもいないのに防犯のために車載カメラが付いている旨を話してきた。

 

とっても焦ってるし、正直カメラに写ってようがどうでも良かったんだけど

老人にはめっぽう弱い僕は気を悪くしないようにおじいちゃんの話を聞いていた。

 

そんなおじいちゃんの遍歴がバツ2だとか、息子はIBMで働いてるとか、長野オリンピックの際は息子を大学行かせるために長野オリンピックの建設の出稼ぎに行ってただとか、娘はアメリカに留学に行って英語が堪能だとか、今は付き合ってる彼女がいるとか。

 

おじいちゃんの人生の波乱万丈な話を早朝、会社に遅刻しそうになりながら聞いてる社畜の図が滑稽すぎてなんか我ながら笑えた。

 

でもそんなただの自慢話を聞いててもおじいちゃんの話に出てきた息子や娘も僕より一回りも二周りも離れている人の話なのに

まだ子供のときと変わらないような話しぶりが親はいくつになっても子供は子供なんだなって感じてすごく気持ちが温かくなった

この感覚は子供がいないとわからないんだろなって少しセンチになった朝だった

 

ちなみに遅刻ギリギリに会社についたのは言うまでもない

自分の中で少しだけ守ってること

最近、アジア人が飛行機から追い出されるっていうニュースをみて

少しだけ先輩のことを思い出した

 

僕は、中学生の頃から先輩にギターを教えてもらってて

今現在も、時間にゆとりがあるときはかき鳴らして遊ぶ程度には続けているんだけど

 

僕にレスポールって言う名前のギターを教えてくれた先輩はとても完璧だった

 

当時の先輩は、おじさんから貰った1950年代のFenderのミュージックマスターを持っていてシングルコイルにヘッド落ちしやすいヴィンテージギターを使っていた

 

その先輩が昔、「人間は木を見て森を見る悪い癖があるから、人をカテゴリーで判断しちゃいけないよ」って言ってたことを未だに覚えてて

僕の中で勝手に守ってる約束の一つなんだけど

 

意外と人種差別って沖縄では顕著にあって、中高年の人達とかはとくに中国人への偏見と差別発言が多いと思う

 

お酒を飲んで、「最近の若者わぁー」なんてくだをまくような大人にならないように気をつけなればいけないなと思いながら、東京にいる先輩元気かなーなんて思った今日だった

 

 

 

僕は僕の誕生日が嫌いな話

僕の誕生日は5月14日、バナナマン日村勇紀と同じ誕生日

 

僕は僕の誕生日が嫌いだ

 

金原ひとみの「マザーズ」を読んでて感じたことなんだけど、幸せであるように見えることの本質って実はわからないよねって思った

 

子供を産むこと、母であることが社会的に幸せであるという押し付けがあるせいで本当は幸せなんかじゃないのかもしれない

 

僕の誕生日の話に戻る

もう24回もこの儀礼的なことを、他に漏れることなく繰り返してきたのだけれど

 

大昔にエジプトから持ってきた暦に印した1/365になんの意味があるんだろうか

 

誕生日とかと同様にクリスマス(恋人たちのイベントとしての)やお正月とかも

 

祝わなければ喜ばなければいけないという周りからの圧力が充満しててすごく気持ちが悪い

 

幸せの押し売りが窮屈だ

幸せじゃなくても喜ばなきゃいけないのか

喜ばなければ社会不適合で欠落しているのか

 

儀礼的なことは大昔には本当に喜ぶべきことが行われていたはずなのに

今では消費のために利用され、広告のおもちゃにされている

 

はたして本当に喜ぶべき日は存在するのか

誕生日ははたして万人が嬉しく思える日なのか

 

 

マザーズ (新潮文庫)

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ハルキストとしての僕は死んだ

高校の時から当時付き合っていた彼女の影響で読書をする癖が未だについている

すごく真面目で努力家で賢かったあの子に憧れて村上春樹を好んで読んでた

ノルウェイの森」から始まり「海辺のカフカ」まで有名どころの村上春樹作品は読んだと思うし、「ノルウェイの森」にいたってはコーヒーのシミで汚れてしまって捨てたのを、また再び買って読むぐらいには何回か読んだ

その他にも、彼女と同じ会話がしたくてたくさんの本を読んだ

その中でとりわけ好きだったのが村上春樹だったんだけれど、最近自宅の本棚から「スプートニクの恋人」を抜き出し読んでいた

なぜかわからないけど過去に感じていたときめきが全て失われていて文字はただの文字でしかなくなっていた

全ての彩度は失われててすごく悲しい気持ちになり、ハルキストとしての僕は死んでしまったんだなと思った

村上春樹と彼女に憧れて、村上春樹の派生するアメリカ文学なども読んだのだが近付けば近付くほどに魅力が失われていき、僕のあこがれの正体は知性の神秘さだったのかもしれない

そういえば書いてて思い出したのだけど
伊藤計劃の「虐殺器官」に
意味のわからない外国語などに魅力を感じるのは
知らないという神秘性から起こるものだ
みたいなことが書かれてたのを思い出した

知りたいのに魅力がなくなるという
ヤマアラシのジレンマに
どう立ち向かうべきなのか

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

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ノルウェイの森 下 (講談社文庫)

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虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

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