フィッツジェラルドに憧れて

思うこと書いていくだけのチラシの裏

僕は僕の誕生日が嫌いな話

僕の誕生日は5月14日、バナナマン日村勇紀と同じ誕生日

 

僕は僕の誕生日が嫌いだ

 

金原ひとみの「マザーズ」を読んでて感じたことなんだけど、幸せであるように見えることの本質って実はわからないよねって思った

 

子供を産むこと、母であることが社会的に幸せであるという押し付けがあるせいで本当は幸せなんかじゃないのかもしれない

 

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もう24回もこの儀礼的なことを、他に漏れることなく繰り返してきたのだけれど

 

大昔にエジプトから持ってきた暦に印した1/365になんの意味があるんだろうか

 

誕生日とかと同様にクリスマス(恋人たちのイベントとしての)やお正月とかも

 

祝わなければ喜ばなければいけないという周りからの圧力が充満しててすごく気持ちが悪い

 

幸せの押し売りが窮屈だ

幸せじゃなくても喜ばなきゃいけないのか

喜ばなければ社会不適合で欠落しているのか

 

儀礼的なことは大昔には本当に喜ぶべきことが行われていたはずなのに

今では消費のために利用され、広告のおもちゃにされている

 

はたして本当に喜ぶべき日は存在するのか

誕生日ははたして万人が嬉しく思える日なのか

 

 

マザーズ (新潮文庫)

マザーズ (新潮文庫)

 

 

 

 

ハルキストとしての僕は死んだ

高校の時から当時付き合っていた彼女の影響で読書をする癖が未だについている

すごく真面目で努力家で賢かったあの子に憧れて村上春樹を好んで読んでた

ノルウェイの森」から始まり「海辺のカフカ」まで有名どころの村上春樹作品は読んだと思うし、「ノルウェイの森」にいたってはコーヒーのシミで汚れてしまって捨てたのを、また再び買って読むぐらいには何回か読んだ

その他にも、彼女と同じ会話がしたくてたくさんの本を読んだ

その中でとりわけ好きだったのが村上春樹だったんだけれど、最近自宅の本棚から「スプートニクの恋人」を抜き出し読んでいた

なぜかわからないけど過去に感じていたときめきが全て失われていて文字はただの文字でしかなくなっていた

全ての彩度は失われててすごく悲しい気持ちになり、ハルキストとしての僕は死んでしまったんだなと思った

村上春樹と彼女に憧れて、村上春樹の派生するアメリカ文学なども読んだのだが近付けば近付くほどに魅力が失われていき、僕のあこがれの正体は知性の神秘さだったのかもしれない

そういえば書いてて思い出したのだけど
伊藤計劃の「虐殺器官」に
意味のわからない外国語などに魅力を感じるのは
知らないという神秘性から起こるものだ
みたいなことが書かれてたのを思い出した

知りたいのに魅力がなくなるという
ヤマアラシのジレンマに
どう立ち向かうべきなのか

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

ノルウェイの森 下 (講談社文庫)

ノルウェイの森 下 (講談社文庫)

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

自意識の高いところから落ちると痛い

友達が言っていた言葉が妙にしっくり来てタイトルに引用させてもらった

学生の頃は高い自意識の中で生きること事態はそこまで辛くない(他者から見ればだいぶ迷惑行為なのかもしれない)

それは多分、理想とする形だけを見続けていて
言うなれば3歳児が将来の夢を聞かれて「ウルトラマンになりたい!」っていう状態にすごく似ている

要は現実が見えていないだけ
現実が見えてない中、努力すると言う代償を払い
結果として努力した優越感に浸っているだけなんだ

かくいう僕もその自意識の高いところにいた学生(デザイン系の学校)だったんだけど
やはりその結果としては優越感だけが過去の成果物として残っただけだった

最近、転職する機会があり社会人生活の中でのターニングポイントを向かえていろいろ思うことがあって
社会人になるとウルトラマンになりたかった僕のヒーローは日々を過ぎるごとにいなくなってしまった

人間的に憧れていた人とも転職とともに離れてしまって
その人のようになりたいと思いながら、自分はその人にはなれないと知り
自分のことで手一杯な僕には自意識という高層ビルから飛び降りていることしかできない

ああ、大人になりたい


SAD GIRL【The SALOVERS】